僕もそんな時期あったなあ
「君は、要するにとか、つまりとか、相手の話を上手くまとめているつもりでいるみたいなのだけれど、それは本当に相手の真意なのだろうか。君が要するにとまとめた言葉は君のもので、もうその人の言葉じゃない。君はそうやって強引に会話や議論を進めている自覚を持った方が良い。上手く立ち回れているのは君の力じゃなくて、周りの無知かあるいは周囲の寛容の産物なんじゃないかな。」
大学時代の友人に言われたことが頭の中でぐるぐると回っていて、当時はなるほどね、一理あるねと適当に受け流していたのだけれど、今考えればあのとききちんと彼の言葉を受け止めて自身を顧みていたならば、大学時代に起こした数々のコミュニケーションエラーを回避できたのではないかと思います。
僕は大学時代にとてもとてもいろんな過ちを犯していて、それでもなお今孤立せずにいられるのはひとえに周囲の寛容さか、あるいは無関心さあってのことだなと感謝の念で胸がいっぱいになります。ちょっと盛りました。感謝は本当です。
人との距離感であったりだとか想定すべきことであったりだとかを失敗からでしか得ることができなくて、そういえば小中高と参考書を何度読んでも頭に入らなかったけれど間違えた問題を正すことでやっと定着していたなあと、いやこれは勉強の基本中の基本かもしれないので話が逸れますね、半端な学歴しかないので勉強論を語るのはやめときます。
大学時代に学業面でも人付き合いという面でも結構一通り失敗を経験していて、だから割とどんな後輩の話でも共感をもって相槌を打つことができると自負しています。
その失敗譚を美化するつもりも正当化するつもりもないけれど、その失敗の数だけまずまず人間っぽくなれてるんじゃあないかなあ。そうあってほしいなあ。
僕も私もそんな時期あったなあ、と後輩にかつての自分の姿を重ねて、そのとき僕はこうしたとか、こうすべきだったとかいう話に繋がる、ということが多分世の中には溢れていて、誰もがしたことされたことがあるのではないでしょうか。
僕はよくしてしまうからこそ上記のようなことを思うのかもしれません。つくづく自文化中心主義から脱せないというか、自分の見聞きする世界が全てなんだなあと、また話が違うところに飛んでいきそうになります。最近の悪い癖です。
僕もそんな時期あったなあという話をしてしまうときに、僕はたぶん相手の話を自分のほうに寄せながら、「要するに君と僕は似てるんだよ」と自分の話をしだす病的な人になってしまっているのです。
それでもなお僕に相談事だったり愚痴をこぼす人は、そんな病気の人を笑いたい人なのか、それとも僕の安い共感がほしい人なのか、どちらにせよかわいそうな人ですね。
嘘です、話し相手になってくれてありがとう。僕は人と話すたびに少しずつ自分のことが分かって、まあ時にはやっぱり自分のことが嫌いになるけれど、たまに自分いいやつだなと思えるのです。
他者と関わっているときにこそ自分という存在を確かめることができます。
相手を傷つけたときにこそ自分の存在を強く感じられるといっていたのは誰だったろうか。
周りの無関心とか寛容さとかで自分がこの場に居続けられていることを自覚できたとき、僕は少しだけこの世界で生きていける気になりました。
割とみんな自分のことで精いっぱいで、人のことを気にしていられる余裕なんてないんだなあ、世の中の7割5分くらいは「ふーんそっか、まあいいんじゃない?」でできている。たぶん。
この話をどう着地させるか全く想像もつかないけれど、たぶん誰もオチを期待していないし、まあいっかの精神で緊急着陸いたします。死傷者はいませんでした。うまいこと言いたい自分が軽傷を負っただけ。、とうまいことを言った気になってるだけ。
人という字は支えあって云々という話でした。大嘘です。独りよがりで支離滅裂な文章を最後まで読んでくれてありがとう。ところで冒頭のようなことを言い出す人間は本当に友人なのだろうか、と思わなくもないけれど僕は彼のことが好きでした。しばらく音信不通ですが生きていてほしいです。